微細藻類応用事業の資金調達ができた。
いよいよ永松構想実現の第一歩を、踏み出す時がきた。
昭和50年9月。東海道新幹線・岐阜羽島駅南側の岐阜県羽島市福寿町に株式会社 日健総本社を設立。役員・社員8人の小さな会社でスタート。
でも社名は「日健総本社」と、でっかくつけた。健康に関する事業を興すという、田中社長の夢が込められている。
「今、岐阜羽島駅周辺は、あんまり発展していないが、必ず発展する。新幹線、高速道路インター、空港にも近いので、全国各地を回ったり、クロスタニンの同志が集まってくるのにも便利だ。」
田中社長の何十年先を、見越した新会社の所在地だ。
岐阜羽島駅は、郷土の大物政治家・大野伴睦代議士(故人)が誘致した田んぼの中の政治駅。新幹線は開通したが、駅南側の繊維団地は進出企業もまばらで、閑古鳥が鳴いていた。
そこに田中社長が目をつけ、団地の一角に建っている、鉄骨三階建ての事務所兼作業所を借りた。いよいよ健康食品「クロスタニン」の製造、販売がはじまった。
二階の資材置場は間仕切りがなく、冬は伊吹おろしの風が吹き込み、ストーブを炊くと結露が天井からクロスタニンの商品の上に「ポタリ、ポタリ」と落ちてくるので、3階の作業所に運ぶのに大変だった。
田中社長は、毎日午前6時半に出社。
クロレラ、シイタケエキス抽出機器のスイッチを入れ、温度調節をしたり、社内を点検して歩き、午前8時半、社員が出社するのを待つのが日課だった。
トラックでビンが着くと、社員と一緒に一列に並んで、3階の作業所へ手送りで運び上げ、クロスタニン錠形のビン詰め、化粧箱の組立て作業を行った。
会社で田中社長の姿がないときは、全国へクロスタニンの普及、組織づくりに夜行から夜行列車に飛び乗り、座席がないときは列車の通路に新聞紙を敷いてゴロ寝しているときだった。
1年もすると、本社、販社、特約店、普及者が一体化した独特な販売ネットワークができた。
創業3年後、クロスタニン事業の基礎もできた。業績も伸び、クロスタニン全国代表者会議を開くまでになった。