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    田中美穂

    5. 警察官時代

     終戦直後で、全国に失業者があふれていた。警察官採用第一次試験の中津川市会場には、約100人が集まった。ほとんどが大学卒業者だった。「大学出の奴らに負けてたまるもんか。」気合いを入れ直し、試験問題に取り組んだ。「やっぱり、学歴がないとダメか。」半ばあきらめていたが、一週間後、合格通知が届いた。
     第三次試験会場は、岐阜県警察学校。38人が採用され、その中に美穂青年も入っていた。「よかった」「よかった」病床の母親が一番喜んでくれた。

     警察学校の厳しいのに驚いた。始末書が三通になると退学処分になる。廊下で大声を出したり、洗面所で歯刷子を忘れても始末書。掃除後、ガラス戸の桟にホコリが残っていると、連名の始末書となるからだ。
     授業もみんなに遅れないように、夜遅くまで、警察官執行法、軽犯罪法、警察法などの予習や復習をした。

     優秀な成績で警察学校を卒業し、瑞浪土岐警察署の配属になった。それには理由があった。
      日本は炭坑などに外国人を連れてきて、強制労働をさせていた。
     終戦後、外国人は「わしらは戦勝国だ。」と町中を威張って歩き、集団で仕返しをした。「金はちゃんと払う。あとから宿舎へ取りに来い。」一銭も払わず、店頭に並んでいる商品を手当り次第、持ち帰る無法ぶりが横行していた。
     町民は怖がって、夕方になると家の戸を閉め引きこもっていた。人っ子ひとり通らず、まるでゴーストタウン。町民の間から「警察はへっぴり腰だ。」批難の声が高まっていた。身体が頑丈で、柔・剣道の強い警察官でないと勤まらなかった。

     同僚2人と宿直していたある夜、電話のベルがけたたましく鳴った。料亭からだった。「外国人が包丁を振り回し、暴れている。」という。
     「それーっ。」同僚二人と現場へ飛んで行った。包丁で自分の手を切り、血だらけになっている大男を取り押さえ、本署に連行した。
     「今度来た田中というお巡りさんは強いぞ。」町中の評判になった。それ以来、騒ぎを起こす外国人集団もおとなしくなった。

     昭和24年8月の暑い日、恵那市の国立療養所から瑞浪土岐警察署に、母危篤の知らせが入った。汽車で中央線恵那駅に向かい、約4km離れた療養所へ走った。
     息をはずませ、病室に飛び込んだ。「美っちゃん、遅かった。」付添っていた従弟妹たちは、ハンカチで目頭を押えた。

     母親を亡くしたショックは大きかった。
      さらにその年の暮れ、宿直中の事件に失意し、3番目の弟が傷害事件に巻き込まれたことに責任をとって、警察官を退職した。

     

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