その後、永松氏と再会した美穂青年は「先生のお手伝いをさせてください。」そう申し出た。
美穂青年はクロレラを事業化すれば、世界的にも類のないような食品企業になるという話が頭にこびりつき、離れなかった。
美穂青年は永松氏に「クロレラの事業は、3年ぐらいで軌道に乗りますね。」とただした。
すると永松氏は「とんでもない。100年はかかる。」
汽車に例え「私の世代でやれるのは、新橋駅から汽笛一声<弁慶号>が走るところまでだ。君の世代では、急行が走る。だが君の孫の代になると、弾丸列車が走る。」
まるで、新幹線の出現を予言したみたいな話だ。
美穂青年が人間的魅力を感じた永松氏は、大分県宇佐市の出身。旧制宇佐中学を卒業。旧制三高の受験に失敗し、京都で微細生物学の権威・正垣角太郎氏の研究所に入り、微細藻類の研究に打ち込んだ。
戦時中、国策会社の理事をしていた永松氏は、食糧難にあえぐドイツが、国民のタンパク質不足を補うため、クロレラを培養したという情報を入手した。終戦直前、海軍に依頼して、ドイツが培養したクロレラを潜水艦で持ってきてもらい、研究していた。
微細藻類クロレラの商品開発には、莫大な資金が必要だった。
車中で美穂青年と出会ったのは、やっと資金の目処もつき、会社設立の準備のため東京へ行くところだった。
美穂青年は、名古屋駅前の易者が占った「何かの事故がない限り、80歳は生きられる。」この一言が頭にこびりついていた。
永松氏から、もう一度構想を聞き、人生設計の迷いも吹っ切れた。
「よし。50歳までの25年間は、人生修行だ。50歳になってからクロレラの事業をはじめるぞ。」
永松氏に仕え、最後までついて行く決心をし、微細藻類への第一歩を踏み出した。