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    田中美穂

    8. 人生修業時代

     ヤクルトは昭和30年、東京に本社を設立。永松昇氏が初代社長になった。
      「田中君、事業を起こし身を立てようとする情熱を、乳酸菌の仕事にかけてみないか」。永松社長から田中氏に誘いがあった。「ありがとうございます。私の人生を貴方にかけます。」運命的な出会いをした田中氏は、永松社長を「人生の師」と仰ぎ、死にもの狂いで仕える決心をした。

      「田中君。じゃあこの地域を頼む。」永松社長から仕事の指示が出た。いよいよ人生修業「永松学校」のスタートだ。仕事の手ほどきも研修すらなく、自ら創意工夫を凝らす、厳しい実践教育がはじまった。
     田中氏は日本地図と時刻表を頼りに、夜行列車から夜行列車に乗り継ぎ、仕事に命をかけ、全国を飛び回った。
     「鞍馬天狗みたいな男だ。」異常なまでの仕事ぶりにつけられた異名だ。

     田中氏は、忙しい中でも時間をつくり、永松社長と会い、クロレラの事業化の話を聞いた。
     汽車に例え「私の世代でやれるのは、弁慶号を走らすところまでだ。君の世代では急行が走る。だが、君の孫の代になると、弾丸列車が走る。」という、百年構想に感動した。
     話を聞くたびに、クロレラ事業で身を起こす夢が大きくふくらんでいった。「よし、クロレラの研究開発を成功させるぞ。」と独学でクロレラの研究開発に打ち込んだ。

     「仕事」と「研究」を両立させるのに、大変苦労した。
     「50歳までは、人生修業だ。50歳からクロレラの事業をはじめるぞ。
     「永松学校」の生徒のうちに、多くのことを学んでおこう。」心の中でそう言い聞かせ、何度も挫折の危機を乗り切った。

     そんな中でも「人生の師」永松社長の背中から、人との接し方、先見性、経営感覚、人情の機微などを学び取り、精神誠意、感謝の心を素にした「田中式普及法」を生み出した。担当地区で実践して歩き、業績を大きく伸ばした。
     「田中はまだ若いのにすごい奴だ。」永松社長は、若き時代の自分と重ね合わせ、仕事への前向きの情熱と商才を高く買った。田中氏は、実践から健康な社会づくりに貢献する「永松イズム」も受け継ぎ、師弟関係の絆も深まっていた。
     田中氏にとって、永松学校は「死ぬ気でつかんだ」実業家への修業の場だった。

     

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