「微細藻類応用企業」日健総本社(岐阜県羽島市福寿町)の社長室には、いつも観音様の横に踵がすり減った一足の古びた靴が入った化粧箱が置いてある。
ヤクルト創始者・永松昇氏が、生前大事に履いていた形見の靴である。幼少時代から苦労を重ねて家計を助け、志を半ばにして絶望感にあえぐ、田中美穂社長の人生を大きく変えた「恩師の靴」だ。
田中社長の少年時代は、父親が事業に失敗し、病弱な母親を助け、六人の弟妹を養うのに苦闘の日々だった。
田中社長は、大正15年5月7日、岐阜県恵那市大井町で、父・美樹造、母・操の長男として生まれた。
父親は味噌醤油小売店を営み、恵那市内の醤油会社の責任者をしていた。家は裕福で、店員さんが3、4人。お手伝いさんが1人いた。
ところが、田中社長が3歳のとき、天国から地獄の底に突き落とされたのである。
父親は、会社と店の売掛金の集金を一人で行っていた。
昭和3年のある日、父親はいつものように、渡し舟で蛭川へ集金に出掛けた。
タバコ屋でタバコを買うと、懐から小銭入れを取り出したが、小銭が入っていなかった。
ズッシリと重い胴巻きをはずし、そこから小銭を出してタバコを買った。急ぎ足で、帰りの渡し舟に乗った。舟が岸に着き、代金を支払おうとして「アッ、胴巻きがない。忘れてきた。」と気づいた。船頭をせき立て引き返したが胴巻きはなかった。
胴巻きには、集金した金が900円以上も入っていた。当時は500円で家が一軒建ち、1ヵ月10円で生活できる時代だった。家や屋敷を売り払って、会社に弁償した。
母親は生活のため、今までのお得意さんを頼りに、細々と醤油を売りはじめた。
美穂少年は、「ボクの下に何人も弟妹がいる。病弱なお母さん1人だけでは大変だろうなぁ」と、小さな胸を痛めていた。
恵那市立大井小学校の1年生のとき「お母さん、ボクが醤油を買ってくるから…」
昔、乳母に乗せてもらった乳母車を押して、父親が勤めている醤油会社へ仕入れに行った。美穂少年が帰ると、母親がせっせと徳利に詰めた。翌朝、徳利を2本下げて、醤油を売って歩いた。
醤油を売ってから学校へ走り込むが、いつも遅刻だった。売れなかったときは「腹が痛い」「頭が痛い」仮病を使って早退し、醤油を一軒一軒に売り歩く遅刻・早退の常習犯だった。