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    田中美穂

    9. 日科時代

     永松社長は、昭和38年4月退陣した。思いがけない退陣に、田中氏のショックは大きかった。
     退陣した後も永松前社長を慕う人たちが集まった。 この人たちの仕事を作らなくてはならなかった。そのころ日本でも、クロレラの有効成分を抽出できるようになっていた。田中氏は、クロレラを事業とする資金をつくって、永松前社長に一つの提言をした。
     「クロレラの事業化に取り組みましょう。」というものだ。
     「田中君から預かっている金がここにある。それを資本に、クロレラ事業をはじめるか。」やっと腰を上げ、新会社の設立準備にかかった。

      昭和39年8月、永松前社長を中心に、株式会社 日本科学開発を設立。東京・代々木の桜菊会館に事務所を構え、クロレラ事業をはじめた。
     田中氏は、ヤクルト時代の経験を生かし、組織づくりに走り回った。

      新会社では、クロレラの錠形を売り出す方針だった。ところが、永松社長のところに集まって来た人たちは、乳酸菌の販売しか出来なかった。やむをえず、別の商品に切替えることにした。新会社は、組織も出来ておらず、設備の完成もあと半年かかるという状況だった。
     プロトン豆腐を1日約4,000丁も売ったり、電話消毒にも手を出し稼いだ。

      そのころ田中氏は、全国の県庁、市役所、食品会社にクロレラエキスの食品応用への実験をしてもらって歩いた。
      実験の結果は上々だった。クロレラ事業はこれからという矢先、永松社長が病気で倒れた。社員の動揺は大きかった。
     「社長の病気は必ず治る。クロレラ事業も軌道に乗る」不安がる社員を、元気 づけるのが精一杯だった。

      永松社長の再起は難しかった。このことを知った社員たちは、1人、2人と去って行った。
      最後まで残ったのは田中氏一人だった。やむなく日本科学開発は、発展的解消をした。

     

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