汽車は「ボーッ」「ボーッ」警笛を鳴らし、グングン近づいてきた。
「あの汽車に飛び込んだ方が楽になるなぁ。」
線路に飛び込もうと前にのべったとき、月明かりで線路がピカッと光った。その一瞬、父親の顔が浮かび、気を失った。
汽車が通りすぎ、気がついた時は、線路脇にへたり込んでいた。その時「死ぬ気でやれば、なんでもできる。死んだ気でやってやれ。」そう悟り、心に誓った。
その後、美穂少年の働きぶりには、他の人も目を見張った。給料も大人と同じに上がり、家計も少し楽になった。そのころ、また美穂少年には、苦難がのしかかってきた。
名古屋の鉄工所から、父の借金を取り立てにきた。鉄工所で働けば、父の借金は棒引きにしてやるという。仕方なく恵那製紙を退社。翌日から、父の借金のカタに鉄工所に行った。
給料は全部家に送ってしまい、小遣いは一銭もなかった。見るに見かねて、鉄工所の奥さんが、社長に内緒で小遣いをくれた。
それも無駄遣いせず、お盆や正月に家へ帰るとき、弟や妹たちに鉛筆や文房具を買って帰り、喜ばした。
鉄工所といっても鍛冶屋。仕事場に火花が散って、足が火傷するので、工員たちは足袋を履いていた。美穂少年は、足袋やスボンを買う金がなかった。先輩たちは、火花で足袋が焼けると、ポイと捨てる。それを拾って、隣の川で洗い、継ぎ当てをして履いた。ズボンも先輩が捨てたものを拾って修理して履いた。
鉄工所で働いている時は、継ぎ当てだらけの足袋、ズボンでもよかった。
しかし、名古屋・栄生駅の近くの鉄工所から、繁華街にある岡谷鋼機まで材料を取りに行かされた時は、恥ずかしいので手拭でほほかぶりをし、リヤカーを引っ張って歩いた。
昭和20年2月、20歳になり、徴兵検査を受けた。体の故障が見つかり、乙種合格になった。
その年の4月召集され、8月には終戦。すぐ故郷に帰った。就職難だったが、恵那製紙の「すき紙部」責任者に復帰。弟たちも成長し、家計は楽になっていた。
もう自分の思う道に進んでいいだろうと思い立ち、昭和22年、病で寝ている母に「警察官になりたい」と、初めて打ち明けた。
「自分が進みたい道に進んだらええがな・・・」警察官志願を認めてくれた。