朝5時に起きて、炊事の支度をし、父と母と弟妹に食べさせてから、出社するのが日課となった。
朝食は、弟妹たちの弁当以外は、雑炊だった。そして、美穂少年は、月刊の大衆娯楽雑誌「キング」の端をノコギリで切り、その中に薄い鉄板を入れ、ご飯がいっぱい詰まった見せかけの「弁当箱」を会社へ持って行った。
昼食時は、工員食堂で、弁当箱を開けるわけにはいかず、近くの川原に出かけた。川の水をガブガブ飲み、水腹でがまんした。
昼休みが終わり、工員が仕事に着くと、大急ぎで食堂にかけ込み、工員が食べ残した弁当を、食いあさって歩いた。
会社の帰りには、道端のヨモギを摘んだり、農家が畑に捨てたキズもののナス、キュウリ、サツマイモを拾った。それをきれいに洗い、味噌汁や雑炊の具にした。
とにかく一銭でも多く稼がなくてはならなかった。
臨時工だった美穂少年の仕事ぶりは異常だった。人が嫌がる夜勤を、率先してやった。15歳の暮れには、大人と同じ1円20銭の給料取りになった。
美穂少年は、現場の技師に機械の扱い方、修理を習った。会社は、仕事熱心の美穂少年を「すき紙部」の責任者に抜擢した。異例な人事だった。
この年、父親は胃がんと動脈硬化症で亡くなった。45歳の若さだった。
父親は、生前、人のために慈善を施していた。葬儀の日、野辺送りに多くの人が集まった。位牌を抱えた美穂少年が行列の途中、後を振り返ると、見送りの人の列が山すそまで続いていた。
棺を土葬するとき、美穂少年は「お父っつぁん、弟妹はみんな立派に育ててみせます。こんな小さなお墓だけど、将来は必ず恵那一番のお墓を建てるから、それまで我慢してもらいたい。」と誓った。
美穂少年は、弟妹たちが雑炊を食べ、寝静まると、パチンコ屋へ出かけた。
客が落としたパチンコ玉を拾い集め、それを景品に換え、弟妹たちに与え、喜ばすためだった。
ある夜、美穂少年はあてもなくふらりと外出した。「何で自分だけが、こんなに苦労をしなければならないのだろうか」自問自答を繰り返し、ボーッとして歩いているうちに、農道の踏切に立っているのに気づいた。
月夜だったので、大きな図体をした汽車が刻々と近づいてくるのが見えた。